広島高等裁判所岡山支部 昭和29年(う)25号 判決
所論の要旨は被告人加藤が刃物を持出したときには、吉岡や幸子は既に五十米位離れた小野の家に逃げていたので、同被告人は吉岡や幸子に刃物を示して脅迫したものでもないし、又同人等は被告人が刃物を持つていることを見たものでもない。幸子等は被告人が台所に刃物をとりに行つたことは吉岡の妻を介して知つたもので、加藤が告げたものではない。之は被告人が日頃情交関係のあつた幸子が情なくするので、その理由を聞こうとした男女間の痴情に端を発した他愛もない出来事であつて、酔余の一駒であるとして、脅迫罪は成立しないとするものである。
凡そ脅迫罪が成立するためには、加害者に於て害悪を加うべきことを口頭にて云うか、或は又その態度にて示して被害者に告知することを要することはいうまでもない。
然しながら害悪を加うべき告知は必ずしも直接被害者に対して告知するを要しない。加害者に於て脅迫の意思を以て被害者に害悪を加うべきことを第三者を介し間接にてもあれ、被害者に知らしめる手段を施した場合には害悪の告知があつたというに妨げない。
本件に於て原判決挙示の証拠を綜合すると、被告人加藤は同人を嫌がつて逃げる幸子を追い廻しているので、之を阻止するため、吉岡が被告人加藤の手を握つたことに憤慨して同人に喰つてかかり、お前等二人を殺してやるんぢやといいながら、備後屋の台所から刺身庖丁を取り出し、之を手に持つて右両人を追いかけて行つたものである。然し被告人が刺身庖丁を持出した時には、吉岡、幸子の両人は既に五十米も先の方に逃げてをり、被告人がお前等二人を殺してやるといつたことも聞いてをらず、刺身庖丁を持つているところを現実に見たものでもない。被告人が台所へ這入つて刃物を持ち出したことは幸子等が逃げる前吉岡の妻が知らせたので、危いと思つて逃げたというのである。然し被告人は事実幸子等を脅すつもりで刺身庖丁を取り出した旨供述してをり、(被告人の検事調書参照)又幸子は被告人に追い廻されているそのさなかに於て吉岡の妻から被告人が刺身庖丁を持ち出したことを聞かされ、身に迫る危険を感じ、危いと思つて逃げたことは、当時の雰囲気に照らし、まことに当然の事態に属するから、優に害悪の告知があつたものと認めるに十分である。
又事実の有無は別として、仮りに所論のように被告人と幸子と情交関係があつたとしても、そのために被告人の不法の攻撃を甘受すべしとするいわれはないから、痴情関係なるが故に脅迫罪の成立を否定する論拠とはなし得ない。
其の他記録を精査しても原判決には判決に影響を及ぼす虞のある事実誤認乃至は採証の法則違背その他の違法はない。論旨は理由がない。
(裁判長判事 宮本誉志男 判事 浅野猛人 判事 則井登四郎)